同じ方向を向かなくても一緒に過ごす「共同体」

シュタイナーには「共同体」っていう言葉が出てくることがあります。

私は今までなんとなく、「共同体」というとそこに集う人たちは同じ意識で活動している、と思っていました。

しかし現代の共同体はそうではないようです。





今は意魂の時代と言われています。

この時代が始まったばかりの時は、ある共同体は地域や血縁によるものでした。

例えば、家族、親戚、村など。

結婚は親が決め、本人同士に責任はないが自由意志もないという時代。

でもそれで動いていました。

けれども、だんだんと個を望む力が強くなりました。

結婚は本人たちが決めたいと思い、自分たちの責任になりました。

個人が強いので一人一人が全然違うこと考えてるのが当たり前になってきます。

例えば・・・

子どもを一緒に育てようと、同じような志で子育てサークルの大人たち。とにかくやっていく。ある時点がくるとAさんとBさんが全く違う意見で違うことをしている。二人は努力したがどうしてもお互いが理解できない。でも、同じ子育てのサークルをやっている。

というような状態。

AとBはお互いに異質なものなんです。でもそのまま歩んでいる。

私は人はみんな繋がっているし、どうにかして理解し合えるはず、と思っていたので今まで理解する努力をしたりぶつかって喧嘩しては仲直りしてきました。

でもやっぱり理解できないまま別れちゃった人もいるし、それは悲しかったり悔しかったりしましたね。

でもね、「人は理解できるなんて思ってるうちはまだ子どもです」と言われてしまった笑。

「理解する」という時、私は「私の」理解をしている。理解したと思っているだけ。私の意見でしかないわけです。

でも相手は全くもって別の、その人だけの「考え」を持っている=つまり個々で自我があるということを知るということ。

これって、日常ですぐ忘れちゃいます、私。わかった!って言い合うのって嬉しいしね笑。

AとBは全くの異質。平行線なりに同じことに取り組んでいる。この体験は人に何をもたらしてくれるのでしょう。

例えばシュタイナー学校の先生は8年間一つのクラスを担任しますが、最初は「先生、先生」と慕ってくれた子どもたちも、だんだんと「先生とは合わない」「きらい」っていうときも出てくる。

でも、同じクラスでやっていかなければいけない。例え同級生に「あいつには賛同できない」と思う子がいても、8年間一緒に授業を受けなければならない。

その中で、人は一つの「忍耐力」をつけることができます。それは「自分にとって異質なものと過ごす忍耐力」です。この体験は自分以外のあの人の中には、自分のとは全く違うあの人だけの「自我」があるということを学ばせてくれます。

この感覚は12感覚の最後の感覚「自我感覚」にあたると思います。これはある意味「自由になる」ことだと思います。

この話を聞いて、忍耐って愛だなぁと思いました。

そうやっていくと、AとBの間に新しい一つの形が生まれるのではないのでしょうか。ここで3つの点ができます。3は一番バランスがいい数字ですね。

ある時点で起こるこの異質と自分が出会う時、人は本当に「出会う」というそうです。「同じだ嬉しいね」で繋がっているのはまだ出会っていない。異質なものに出会う時、自分を知ります。そして同時にそれは向こうからやってくる天命・使命です。

昔、人間が儀式や礼拝などで天から下ろしていたものが、それです。でもシュタイナーの人智学ではそれはこの世の実際のものから来ます。友人から言われた一言でハッと気づき、言った本人は「そんなこと言ったっけ?」なんて、よくある話ですね。

共同体にとって、異質なものとの出会いは「子どものはしか」のようなもので、成長に必要なものなんですって。必ずあるものなんですって。そこで生き別れにならずに同じ場所にいる忍耐ができれば、新しいものが生まれるのかもしれませんね!












人智学は、本当に自分がしたいことは何かを教えてくれる素敵なツールだと思います。そして常に「今とこれから」に視点をおいて考えます。子どものことも、社会のことも。

今とこれからの人間にとって、すごく有効なものだと感じています。

je fais à que j'aime

地味にワクワク生きる。生活に直観とシュタイナーの世界観を。